大規模災害後の復興プロセスにおける住宅再建支援に関する教訓資料

唐山地震 (M7.8) 1976年7月28日

□ 人的被害 死者:242,469人 重傷者:16.5万人 軽傷者:約50万人

□ 建物被害 倒壊棟数:540万棟 倒壊戸数:322万戸

□ 被害額 直接被害:96億元 間接被害:約300億元

□ 概要

1976年7月28日3時42分、唐山市並びに郊外の河南県付近でM7.8の直下型地震が発生した。唐山市は河北省の東部に位置する人口約100万、面積1,000k㎡の鉱業都市である。

天津市などを含め唐山地震全体では242,469人の死者が発生しているが、その85%にあたる204,984人が唐山地区(うち唐山市は148,167人)で亡くなっている。建物被害については、全体で540万棟、322万戸が倒壊し、唐山市では全建物の96%、住宅の97%が倒壊した。煉瓦造の建物が一瞬のうちに瓦の山と化したため、生き埋めになった人が多く、大量の死者発生につながった。その他、鉄道や道路などライフラインが壊滅的な被害を受け、耕地では液状化が発生した。水道の復旧には約3ヶ月を要している。

【復興プロセス】

直接被害30億元に対して52億元の投資がなされている。その九割が国の援助である。

復興へのダイヤグラム・二段階復興論

復旧から復興へのプロセスを時系列的に整理し、復旧を取り敢えずの回復と震災以前までの復旧に区分している。また「先を簡単にし、その後健全にする」という復旧から復興への連続性を意識した方針を明確にし、取り敢えずの復旧を優先する方針を取っている。その結果、主要道路や主要鉄道の復旧は早期にはかられ1~2週間で達成されている。

都市の再編成

唐山地震では壊滅的な被害であったため従来の大都市の問題点を洗い出し新しい都市の計画をたてた。中国全土から2,000人以上の専門家を集めチームを作り、新しい大計画を立てた。大都市の抱える過密等の問題の解決と地震などの災害危険の解決をどう図るかが議論され、「同じ場所に再建」「衛星都市に機能分散し低密度都市の形成」「場所の移転を行い新都市」の三つの案が出たが、鉱山都市であり場所移転はそぐわず折衷案的第二案を採用することとなった。

唐山市総合計画

三つの市街地から成る分散型都市構造の採用、用途区分、住宅団地計画、公園緑地の計画、道路計画、エネルギー計画等を中心とした計画がたてられた。

【住宅再建の方式】

住宅優先の復興事業

住宅再建に関して効率的かつ合理的な復旧を実現している。先に挙げた二段階復興論と同様、「住宅を先に、その他を後に」といった方針を打ち出し、住宅を優先し公共建築を後回しとしている。1979年の下半期から全面的な復興工事が始まり、1986年の末までに市内の世帯総数の98.5%を占める23万戸の新しい住宅がつくられた。

住環境の向上

新しい住宅団地は、人口規模が一万、面積20k㎡の居住小区を基礎単位とし、その小区が集まって居住区を構成する、階層性のある住宅団地計画となっている。地震後10年で1800万㎡を完成した。20年後には、市域の人口ひとりあたりの住宅面積は12.1㎡となり、全国平均を大きく上回った。密度管理では、ほどよい建築密度が目指され、建蔽率を25~30%に抑える目標が設定された。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 「取りあえずの復旧」を優先したことによって迅速な復旧が行われた

・ 住宅再建をとりわけ、人力、機械力、財力を集中させて取り組み、速やかな生活の回復を達成している

・ 住宅を優先し公共建築を後回しとしている点はローマプリエーター地震と共通する

・ 復興に先立って、都市防災性能の目標を定め、安全な都市復興に取り組んでいる

・ 唐山では震災を、安全な都市づくりの契機とするだけでなく環境問題や交通問題さらには住宅問題などの解決を図る契機と位置付け、新しい都市の建設に成功した

・ 分散型都市の実現、高性能インフラの整備、都市緑化とオープンスペースの確保などが成果として挙げられ、人口や住宅の建築面積は大幅に増加している

・ 成長管理についていうと、人口目標は大幅に超えており、必ずしも復興で目指した意図が、すべて貫徹されている訳ではない

・ 壊滅的な被害に加え、日本や西欧のように土地の私権や利用抑制がなかったため、災害によって思い切った計画を実現できた数少ない例となった

出典

卲 珮君:「中国唐山地震における復興計画に関する研究」、地域安全学会論文報告集No.7、1997年

都市地震震災害国際シンポジウム委員会・編:都市地震震災害国際シンポジウム報告書、1996.3

越山健治:「大震火災地における復興計画に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期過程修士論文、1997年

メキシコ地震

□概要

・1985年9月19日 M8.1 メキシコシティ

・死者約5000人(およびそれ以上、2万人とも言われる)

・公式発表された建物被害は12747棟、内65.4%が住宅

・共振が起こり、地盤が軟弱であったことも災いして10~15階建ての中層ビルが次々に倒壊

・メキシコシティ都心部に被害集中

⇒とくに「ベジンダー」と呼ばれる低所得者用の古い共同住宅に被害が集中しており、被害世帯の95%以上が借家

・被災住民の多くは、同地区に長く住んでいる(20年以上が70%)

・被害世帯一戸当たりが平均20㎡と狭く、一戸平均4.6名、1~2部屋

・被害世帯主年齢は平均42.9歳で、25~60歳が全体の75%強

・住宅被害の主要因である、老朽建築の都心部放置の原因

・家賃凍結令(家賃の据え置き強制)による、建物所有者の修繕意欲の欠如

・居住権保護の関係で、任意での建物用途変更が困難であること

・低所得のため、自力修繕が不可能であること

【復興プロセス】

1985年10月14日

RHP(庶民住宅復興計画:Proruramme to Renovate low-income Housing)の設立

1985年10月21日

4323区画の収用を決定

~1987年

48800戸もの大量の復興住宅を供給

【住宅再建の方式(評価)】

・都心部に点在する被害住宅に対して、建物・土地の収用(全壊判定の建物・土地を政府が買収)

⇒買い手(政府)、売り手(土地所有者)、住み手(居住者)の利害関係が一致

・政府から被災者に対して、優先的に分譲方式の住宅供給

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 低所得者層向けの住宅供給システムを確立した。(現在でも継続)

・ 都市内部に潜む、災害脆弱性を解決した。

・ 居住者を元の場所に復興させることを、計画の第一段階にすえた。

・ 被害本質へのアプローチと、その解決策を模索した。

・ 住民参加システムを確立した。(市民レベルへの情報の伝達)

出典

日本建築学会近畿支部 研究報告集 越山健治

「大規模地震災害における住宅復興に関する考察

-1985年メキシコ地震における住宅復興(RHP)の分析-」

ロマプリエタ地震(M7.1) 1989年10月17日

□ 人的被害 死者:62名 傷者:3700名

□ 建物被害 高速道路、橋、住居、公共施設に被害が集中。27000のユニットで被害。

□ 概要

1989年10月17日午後5時、サンタクルーズ山脈(近辺にLoma Prietaと呼ばれる丘)にて発生。地表から18km下で起こり、サン・アンドレアス断層を40km断裂させた。強い揺れは15秒弱続き、70億ドル以上の損害を引き起こした。

【復興プロセス】

付け札システム

所有者や借家任意建物の構造被害の最初の評価を提供する。地元や国の役人に被害の程度の仮知識を提供する。しかし、実際には、付け札の色は被害の程度を完全には表していない。カリフォルニア州の緊急サービス局は、80名の建物の検査官を派遣した。10日間で8,000軒の建物を診断した。

フェニックスパビリオン

被災企業の仮事務所。市と2つの非営利団体との共同事業で設置された。安価に駆り事務所を開くことができ、多くの企業が救われた。

住民の避難所・仮設の収容所

FEMAの移動式住宅やトレーラーを利用したり、間借りをさせてもらったりした。また、モーテルを借り上げたり、市の公会堂を利用して被災者を収容した。

Measure E

市街地再建の財政的基盤を確保するための、特別な「地震税」。地震から1年後の1990年11月にサンタクルーズ郡で採択された。

ビジョンサンタクルーズ

設計計画段階から市民が参加できるように作られた非営利組織。官・民から委員が参加。ワークショップや公聴会を開催。1991年6月に市街地復興計画が市議会で採択された。

【住宅再建の方式】

単一家族住宅の復興は、連邦災害援助団体、保険福祉事業団、ボランティアの連携による(ローン、保険贈与、慈善援助金など)によって行われるはずであった

FEMAの問題点

“借用証明”や“仮説住宅援助への30日間の居住要求”を低所得被災者に強要する

CALDAPの設立

連邦災害援助団体(FEMA)、Small Business Administration(SBA)の援助だけでは、不十分であった。California Disaster Assistance Program(CALDAP)を設立し、基金援助を行った。CALDAPは低所得者によって、財政援助をうける主要な手段となった。住宅の修復や再建のために、810人の一軒家の所有者に一人当たり53.466ドル、合計4.3億ドルの基金援助を行った。住宅の修復や再建のために、142人の賃貸住居の所有者の2800のユニットにユニット平均15,000ドル、合計4.4億ドルの基金援助をおこなった

政治的圧力に対するアメリカ赤十字(ARC)の反応

沿岸地域においてLoma Prieta被災者のためのすべての救援基金を集め続け、住宅復興の目的で集められた8,400ドルを使った。それとは別に、1,300万ドル~1,500万ドルを住宅復興プロジェクトに充てた(その大部分が複合住宅プロジェクト向け)。

最終的には、被害を受けた建物の多くは、非営利住宅開発者が様々な基金をつなぎ合わせて買い取った。多くのケースで、CALDAPが再建コストの20~50%をカバーし、残りのコストは“Community Development Block Grants”のような従来の低所得者向けの住宅プログラムによって支払われた。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ SBAローンや、州・地方政府による他の基金やローン、保険などの、シングルファミリー向けの住宅復興システムは十分ではなかった

・ Loma Prieta地震は低所得者の住居への被害が最も激しく、市場が公的援助なしに適当な使用量でかわりの住居を供給することができなかった

・ 州や非営利団体の努力にもかかわらず、地震で壊された低所得者住居の半分も取替え、再建が行われなかった

出典

Mary C. Comerio :『Disaster Hits Home』University of California Press,1998

都市地震災害国際シンポジウム実行委員会編:「都市地震災害国際シンポジウム報告書:「アメニティ」と「セーフティ」-新しいまちづくりと地域防災政策への提案」都市地震災害国際シンポジウム実行委員会,1996

ノースリッジ地震 (M6.8) 1994年1月17日

□概要

発生時刻:1994年1月17日午前4時30分55.39秒

地震規模:マグニチュード6.8、直下型、深さ17.34km、震源から半径約15~20㎞の範囲で震度6~7

被災場所:南カリフォルニア 被災者数:667,000名(死者61名、負傷者8,700人以上)

入居不能建物:約25,000棟 出火件数:約100件

【復興プロセス】

緊急融資:行政管理予算庁(OMB)は、画期的な財政戦略を打ち出し、地震発生から最初の8日間の復興費用を100%連邦負担とするようにした。中小企業局(SBA)は、実質的にその規制を書き換え、住宅所有者および中小企業がより財政援助を受けやすいようにした。連邦政府の負担とそれ以外の分担割合を90/10とし、さらにその10%の支出額についても、カリフォルニア州に150百万ドルを貸出した。

水と食料:米国赤十字(ARC)と救世軍が、無料給食所と移動給食ステーションを何十も設置。50,000食提供。農務省は6,300万ドルの緊急食料切符を293,000世帯に発行。陸軍工兵隊は飲料水の分配に協力。

医療:復員軍人省(VA)が4つの移動診療所を設置。これらの移動医療ユニットのVAの医療専門家が被災者の75%にプライマリーケアを施した。

情報の提供:復興チャンネル、復興タイムズなど

交通再建:道路交通への依存度の高い南カリフォルニアにとって、拘束道路の損壊は大打撃であり、その解決のスピードアップが最重要課題であった。

入札手続きでの画期的な手段

? 設計/建築契約

? 少数の有資格業者に対する入札勧誘

? 業者にインセンティブを与えるような支払いシステムおよび迅速な入札手続

? 不利な立場の企業(DBE)にチャンスを与える

これらは、ローマプリエータの地震から得た教訓を活かしている。また、大量輸送システムの利用は、地震前に比べ、復興後も増加した状態で落ち着いている。

【住宅再建の方式(評価)】

短期の避難所:30日間を限度として、ホテルおよびモーテルへの滞在について直接代金を政府が払い戻した。被害が最も甚大であると推定される地域の家を失った住民に、平均3,400ドルを即座に支払った。

長期的な住宅政策:① 臨時の避難所を提供するよりも、自分たちで損傷箇所を補修し、自分たちの住まいで再出発できるように援助している。

② FEMAは、270,000人を超える住宅所有者に対し、家屋の補修を援助している。

③ 500,000人を超える被災者が、連邦政府からの生活資金援助および中小企業局(SBA)から低利融資を受けることができた⇒地震発生からわずか4週間の内に、避難所から被災者の姿は消え、殆どの生存者はそれぞれの家に戻るか、代替住宅を見つけることができた。

④ 住宅都市開発省(HUD)は、12,858部の第8項証明書を被災した低所得者世帯に提供した。⇒地震発生以前より、すみやかに長期の住宅ローンに移行することができた。

⑤ HUDの移動プログラム⇒8,640以上の世帯および個人が予算の範囲内の住宅を見つけ、かつ自活することができた。3,600を超える世帯が、最終的な借用権の認可を得るための援助を受けた。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

経済低迷期にあったため、空家率が高く、借家層の被災者は、その居住地の近くにそれまでと同様の家賃で、賃貸住宅(代替住宅)に入居できた。そのためコミュニティは、破壊されなかった。

空家を多く抱えていた比較的大規模な賃貸集合住宅の家主層による再建は困難であった(入居していた借家層は、上記のように、別の賃貸住宅に入居したため、更に入居者確保が困難)。

10戸未満の老朽賃貸住宅の場合は、空家がほとんどなく、また、SBAの低利融資が得られたので再建が容易であった。

戸建て住宅の被害については、多くが保険に入っていたため、これらの住宅の補修にかかった費用120億ドル(約1兆5千億円)の3/4は、保険金からの支払いによる。

出典

FEMA編著・まちづくり計画研究所訳著・監修:「災害危機管理と防災対策-ノースリッジ地震1年間の軌跡-」

Mary C. COMERIO, Disaster Hits Home, New Policy for Urban Housing Recovery, University of California Press, 1998

トルコ・マルマラ地震

コジャエリ地震 (M7.4) 1998年8月17日

ボルー・ドゥズジェ地震 (M7.2) 1999年11月12日

□ 人的被害 死者:18,243人 負傷者:48,901人

□ 建物被害 大被害:93,152戸 中被害:104,581戸 一部損壊:120,520戸

□ 概要

1999年8月17日及び11月12日に、トルコ西北部、北アナトリア断層上の隣接する地域で、M7.4とのコジャエリ地震、M7.2のボルー・ドゥズジェ地震が連続して発生した。この両地震は、被災地域が連続的に広がる地域であり、政府としての災害対応も、とくに復興復旧段階ではむしろ「ひとつの災害」として対応することが不可避であるため、二つの地震による災害を、被災地域がマルマラ海沿岸地域を中心とするということから「マルマラ地震」と命名されている。被災地は、県や郡の中心都市が多く、都市部では近年の人口増加化に対応して、中高層の集合アパートが数多く建設されており、被害を受けた住宅も比較的新しい5~6階建ての住宅であった。

【復興プロセス】

震災応急対策・・・「危機管理センター」

被災した各県との連絡を取りつつ被災状況の把握と緊急対応活動を進めるため、アンカラの首相府に設置

中長期的な復旧・復興対応・・・「被災地域調整機関」

被害の広域化に対応するため、被災地間の相互調整機能として首相府内に設置

被災地内にも中央政府主導で「災害調整センターを設置」

【住宅再建の方式】

持家再建支援型の方式

住宅再建支援の対象となる権利者は、被災住宅の所有者のみ

住宅に賃貸で入居していた人は対象外であり、政府の支援策は今のところなし

(仮設住宅支援は、持家層、借家層ともに対象)

3つの支援策・・・「復興住宅」「自力再建の資金融資」「住宅購入の資金融資」

復興住宅:政府の供給する新しい復興住宅の購入権及び購入資金の融資を受ける権利

自力再建の資金融資:自宅の再建を行う人に対する資金の融資を受ける権利

住宅購入の資金融資:再建せずに他の場所に自宅を購入する資金の融資を受ける権利

※ 基本的には全て資金借入の手続きが必要であるが、経済的圧迫感は低くなっている

旧市街地の住宅再建

被災都市の防災性能向上のため地盤調査を実施し、軟弱地盤地域で建築物の高さ制限

ニュータウン型の復興団地

生活基盤も含めた都市移転型(ニュータウン型)の復興住宅の建設

地盤条件を優先して選ばれた丘陵地に開発し、復興住宅は3階建て以下の集合住宅

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ トルコの住宅再建支援策は、法律により定められており対応が素早かった。

・ 公的建設住宅の防災的活用、旧被災地における防災計画の実施など、積極的な都市改造を行っている。

・ 都市部の人口集中地区において、高さ制限により従前と同じ戸数の供給ができない

・ 被災市街地での個別復興の多くが集合住宅の復興であり、区分所有型の集合住宅の再建をどうするかが課題である→コーポラティブ住宅制度の活用を検討。

・ 借家層に対しての基本的な住宅再建対策の準備が必要。

出典

越山健治他:「1999年トルコ地震における住宅再建過程と現状」、地域安全学会梗概集No.13、2003

中林一樹:「1999年トルコマルマラ地震からの復興状況と課題」、地域安全学会「地震・火山災害における住民・行政の対応と被災地の復興その1」、2002

中林一樹:「1999年トルコマルマラ地震からの復興状況と課題(その2)」、地域安全学会「地震・火山災害における住民・行政の対応と被災地の復興その2」、2003

中林一樹:「阪神・トルコ・台湾の震後比較と学ぶべきこと」、地域安全学会梗概集No.10、2000

台湾集集地震 (M7.3) 1999年9月21日

□ 人的被害 死者:2,455人 重傷者:11,305人

□ 建物被害 全壊:38,935戸 半壊:45,320戸

□ 概要

1999年9月21日午前1時47分、台湾中部南投県集集を震源地とするM7.3の地震が発生した。この地震は、被害の規模とともに、地表に現れた変位に見る活断層の激しさにおいて、20世紀のアジアを代表する地震災害の一つである。この地震により、多くの人的被害とともに、住宅、学校などの建物、公共施設などに多大な被害を生じた。被害を受けた住宅は、台中市などの大都市部については部分的被害であり、むしろ中小都市や経済基盤の弱い農村集落などに広範に被害が広がったところに特徴がある。

【復興プロセス】

復興期を3期に分類 ①「救済」:応急対応期 (地震発生~2週間程度)

②「安置」:復旧活動期 (2週間程度~2ヶ月程度)

③「重建」:復興段階 (2ヶ月程度~)

コミュニティを主体とした復興

地方小都市や山間部の村落に大きな被害

→「社区」(コミュニティ)レベルでの「社区再建計画」が重要視

ボトムアップを基本に、地域単位の計画に対し、住民参加型のまちづくりを推進した

「財団法人921震災重建基金会」の復興(重建)支援事業

民間人を責任者とするNGO組織であり、社会サービスや個人住宅の再建など多岐に渡って義捐金の運用を担っている

【住宅再建の方式】

地震直後の住宅再建施策・・・「慰労金」、「家賃補助」、「住宅再建低利融資制度」

慰労金:全壊世帯に20万元(約80万円)、半壊世帯に10万元を一律に支給

家賃補助:「公的住宅の低価格による分譲」、「応急仮設住宅の無償提供」と並ぶ3つの選択肢の一つであり、最も人気が高く仮住まい期における最も主要な支援策

低利融資:住宅再建、購入にあたり、一世帯最高350万元、最長20年間融資

105万元までは無利子、15万元を超える部分は3%の貸出利率

※ 結果的にこれらの施策は、個別住宅の自力再建を現金支給や低利融資によって推進することになる

本格復興期における住宅再建施策・・・「協議承授」、「利子補給」、

協議承授:二重ローン者の再建支援、元の銀行との協議により既存ローンの返済免除

利子補給:既存ローンに対する措置

※ これらの他にも、建築許可手続きをはじめ、かなり思い切った規制緩和や行政手続の簡素化が行われた

住宅再建困難者への対策

経済弱者に対する再建支援・・・「財団法人921震災重建基金会」(約震災1年後)の施策

低所得者に対しての資金補助、専門チームによる設計・施工の一環サービスの提供

集合住宅の再建支援・・・「臨門方案」

計画作成等の助成、容積の特別緩和、建替え同意要件の緩和などの支援策のほかに、合意形成のネックとなっていた再建に参加しない被災者を対象として、基金会が買い取って直接参画する施策

公的賃貸住宅の供給・・・「平価住宅」の供給

自力再建困難者以外の施策として、新団地に低廉な分譲住宅と低家賃の公的賃貸住宅「平価住宅」の供給を具体化

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 震災直後の早い段階から、現金支給や低利融資さらには規制緩和と個別住宅の再建策が用意されている

・ 家賃補助は、家屋の修理や自力再建の建設費用として、恒久仮設住宅の建設のための準備金として活用され、自発的で多様な解決を引き出し、すばやい住宅復興につながった

・ また、家賃補助はコミュニティを破壊せずに再建を果たす、被災者の自発的な再建エネルギーを引き出すといった点でも成果がある

・ 半官半民的な「財団法人921震災重建基金会」によって、義捐金の有効な配分・利用が図られ、新たな住宅施策が生み出された

・ 集合住宅再建における区分所有者の意見調節の難しいなどの問題点を解決するために、新たな「臨門方案」などの施策が創出された

・ 今後の課題として、住宅再建弱者に対する公的な住宅施策システムの構築が挙げられる

出典

垂水英治、邵珮君:「台湾集集大地震の住宅再建・まちづくり復興」、日本建築学会総合論文誌第2号「災害からの復興と防災フロンティア」、2004

垂水英治他:「台湾大集集大地震後の被災住宅再建過程と被災4年後の再建住宅の実態」、地域安全学会梗概集No.13、2003

中林一樹:「阪神・トルコ・台湾の震後比較と学ぶべきこと」、地域安全学会梗概集No.10、2000

関東大震災 (M7.9) 1923年9月1日

□ 人的被害 死者:99,331名 行方不明者:43,476名 負傷者:103,733名

□ 建物被害 全壊:128,266棟 半壊:126,233棟 焼失:447,128棟 流出:868棟

□ 概要 1923(大正12)年9月1日11時58分、M7.9の地震が関東南部で発生し、東京府、神奈川県を中心に甚大な被害となった。最大震度は東京、横浜などの震度6であった。世界でも例を見ない大火災を伴った地震で、東京の市域の46%にあたる3600ha、横浜で40%にあたる1280haを焼失した。

【復興プロセス】

帝都復興計画

復興計画策定の経緯:

地震直後に立てられた原案は壮大なものであった。結局、計画案は何度も練り直され、縮減された。1921年に東京市政要綱というものが作成されていたため、実際の当初案はわずか1ヵ月半でまとめられている。

復旧よりも復興:欧米都市に負けない近代都市の創出というものに強い意識を持っていた。

復興事業:

震災復興区画整理…焼失面積の9割にあたる3,119ha。大都市中心部においては初の土地区画整理事業であり、対象地域が高地価であったため、減歩に対する反対が強く、無償減歩案から1割以上の減歩に対する補償へと変更された。無計画な密集市街地区は一掃され、幅4m以上の生活道路網が通り小公園が配置された。同時に上下水道、ガスが整備された。

幹線道路・公園の整備…昭和通りや靖国通りなど119km、3大公園が整備された。

隅田川の6大橋梁の建設…隅田川に風格のあるデザインのなされた橋梁が新設された。

公共施設の整備と不燃建築…中央卸売市場が新たに整備され、小学校は都市不燃化のシンボルとして鉄筋コンクリート造の建物となり、水洗トイレも採用された。

同潤会の組織…1924年、被災者の生活再建のため、住宅と職の供給を目的として、市民から寄せられた義捐金により設立された。1941年までの18年間に東京、横浜を中心として、約12,000戸を建設した。

防火地区指定と耐火建築物の補助制度

東京、横浜に防火地区を指定し、耐火建築物に補助を出す制度を制定した。

現地主義に基づいた復興

仮設市街地における建築物の建築主体は土地所有者や借地権者に限定されず、仮設市街地における建築物に借家人が法的に存在し得た。

【住宅再建の方式】

借家層を多く取り込んだ仮設市街地

建物ベースで5割、居住世帯ベースで7割が借家であった。区画整理とその後の時間の経過の中で、その借家層を中心として居住者の入れ替りが進んだと推測されている。

同潤会の供給事業

普通住宅:

2~6戸建の木造長屋建住宅が設立から翌年にかけて建設された。この普通住宅建設以前に、同潤会は仮住宅を建設したが、これは同潤会の当初の計画にはなかった住宅で、都心のバラックを撤去するための中間施設として建設されたものである。仮設住宅への入居者は、後に建設される普通住宅への入居が保証された。

アパートメントハウス:

近代設備を備えた中層の住宅団地が、都心の被災地や郊外の好立地に建てられ、近代的都市居住の像を提示した。東京においては、青山、代官山など12ヶ所に建設された。

共同住宅:

区画整理と並行して進められたスラムクリアランスを目的とした不良住宅改良事業により、2~3階建の共同住宅が建設された。東京においては、3ヶ所に約490戸が建設された。

分譲住宅:

郊外型の木造戸建住宅が、1930年代の同潤会の事業の中心となった。不人気のため建設がうち切られた普通住宅に替わって建設された。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 仮設市街地に借家層を多く取り込んだことは、被災者の居住場所確保、現地での復興活動に、一定に効果をあげていたものと推測されている。

・ 同潤会は、震災の事後処理のための住宅供給にとどまらず、新たな労働者住宅の開発・管理も行った。中層のRC造集合住宅の計画など、新しい試みを研究・実践した。

・ 東京復興事業は、特別都市計画法の制定にもかかわらず、総合的住宅法制を欠落したなかで遂行された。

出典

田中傑:「関東大震災復興区画整理後の建築活動と居住者の変容の実態―旧下谷区御徒町3丁目地区のケーススタディ―」、日本建築学会計画系論文集第553号、2002

都市地震災害国際シンポジウム実行委員会編『都市地震災害国際シンポジウム報告書』、1996

越山健治:「大震火災地における復興計画に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期課程修士論文、1997

平野敏右他編集『環境・災害・事故の事典』、2001

http://www.mid-tokyo.com/

北但馬地震 (M7.0) 1925年5月23日

□ 人的被害 死者:570名

□ 建物被害 全壊:1,164戸 焼失:1,696戸

□ 概要 1925(大正14)年5月23日午前11時10分頃、M7.0の地震が但馬北部で発生し、大きな被害をもたらした。豊岡測候所では震度6を記録している。兵庫県北部という有史上極めて地震の記録の少ない地域での大地震であった。直下型断層地震であり極めて限定した狭い範囲に大きな被害をもたらした。地震火災も発生し、地形上狭隘な町となっていた城崎町は、数カ所から出火し町全体を焼失した。火災は城崎町のみならず豊岡町、港村でも発生し大きな被害をもたらした。豊岡町では焼失戸数が1000戸に達している。

【復興プロセス】

復興計画策定の経緯

(城崎町)地震被害によって都市全体の構造を大きく変更する計画の必要に迫られたが、町長は温泉の町の復興を確信し、震災復興事業に臨んだ。基本的に復興事業計画は県主体で、県の土木技師と町が協力し計画案の策定が行われた。そのなかでも、町民大会とよばれる議論の場が主体となり、町民の意見と一体となった復興計画づくりが行われたことに特徴がある。

(豊岡町)復興計画の策定は、城崎町と同様基本的には県の土木技師が主導で行っていた。豊岡町は震災前から区画整理を含む都市計画(大豊岡計画)が行われており、その分復興計画を策定しやすく、町側も同意しやすい内容であったと推測されている。

復興事業

(城崎町)

温泉復興:

産業の基盤である温泉及び旅館の全滅により、共同温泉の再建計画が最重要課題であった。共同浴場は過去の場所のまま再建するという方針が掲げられ、この共同浴場の復興が各地区の復興を盛り立てていった。

区画整理事業:

町民大会で「全地主が公簿面積の一割を町に無償提供する」という町長の案を承認しており、提供された土地を利用して安全で効率的な道路網の計画、都市内の防災計画等を積極的に進めていった。

道路計画及び河川改修:

河川改修、区画整理と関係させて、整然とした直角交差を原則とした道路計画を行っている。県道に関しては道路拡張に重点を置き、旧来の道に準じた位置に計画された。

防火地区の設置:

城崎町の防火地区の設定は町長に一任され、防火建築物の指定という形になった。この防火建築を中心に防火帯が作られたようである。防火帯を構成する建築物群は非木造で建てられ、町を分割している。町の形状に合わせて防火帯と防火建築群を適度に配置し、河川と道路幅員も有効に使用して多くの街区区画を作り出している。

学校復旧:

当時としては最新の技術を用い、鉄筋コンクリート造の建物となった。

(豊岡町)

町道構築=町区画整理:

当初の案が地主一部の強硬なる反対に遭い、実現せずに終わり、その時点で都市改造計画の全体構想は行き詰まりを見せた。結局、県道町道とも市街の左右各1間ずつの幅員を各戸の間口に比例して地主負担とし、その他は町の負担とした。道路計画の中止・縮小は復興事業の質に大きく影響を与えた。

復興市街の建設=防火建築の補助:

県は防火施設に重きを置き、防火建築補助の発表と共に義捐金を町に支出した。

地区制の実施:

豊岡町に五つの地区を設けそれぞれに用途を限定し計画することによって、近代都市の構築を目指すものであった。

堀の埋立:

備前堀と尾崎堀の埋立を行った。

【住宅再建の方式】 (記述があまり無かった。)

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ (城崎町) 公共建築の復旧及び共同浴場の復旧、さらに区画整理事業の断行など様々な要因から、復旧事業の遅れ、特に住宅復旧の遅れがみられた。中でも、住宅建築と密接な関係を持つ区画整理事業を、今後の城崎を見据え、断固たる道路計画、防火計画のもと実施したことがこのような結果となっていると推測されている。

・ (豊岡町)事業当初からあった区画整理に対する住民側との対立が、地震後さらに強まり結局災害で被害を受けた地域の区画整理ができないまま、事業は終了した。

・ (豊岡町)埋立事業により周辺の市街地宅地は増加し、その後の豊岡市街地の拡大基盤となっている。

出典

越山健治:「大震火災地における復興計画に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期課程修士論文、1997

北丹後地震 (M7.3) 1927年3月7日

□ 人的被害 死者:2,992名 負傷者:3,772名

□ 建物被害 全壊:12,584棟

□ 概要

1927(昭和2)年3月7日午後6時27分、M7.3の地震が京都府北西部で発生し、大きな被害をもたらした。震度6相当の規模であった。直下型の断層地震で、丹後半島頸部の被害が非常に激しかった。被害範囲は狭く、被害度は非常に高くなっている。被害地域は人口数が少ない農村部にも関わらず倒壊家屋が多く死亡者も多い。地震動の大きさは有史の地震では最大級であったと推測されている。死亡率は峰山町で24.2%、吉原村で10.6%、市場村で12.1%という非常に高い値を示した。また、多くの地域で軒並み全壊全焼率が100%に達している。

(以下は、主に峰山町について述べられたものである。)

【復興プロセス】

震災復旧資金

義捐金、復旧貸付資金(国から府へ、府から各市町村へ、峰山町から個人へ)ともにかなり高額であった。また、罹災者に対する税金免除も行われた。

復興事務出張所

復興計画について、政府は現地に復興事務所を設けるなど、組織的に進めていこうとしている姿勢がうかがえる。昭和2年4月27日に設置された復興事務出張所の具体的な取り扱い事務をみてみると、①貸付資金運用および補助金使用に関して②産業に関して③土木および建築に関して④救護に関して、などである。

【住宅再建の方式】

復興バラック

3月末までに、峰山・網野一帯の町村に完成した府営・町村営・部落営・個人営の急造バラックは4140戸余になった。

家屋構造についての指導要領

震後の家屋構造法心得:

知事は、住宅及び公共物再建のため、家屋構造の標準を示し、参考にするよう告諭として発表した。一般注意、新築・改築の場合、修繕の場合と、調査の結果明らかになった被害家屋の欠点をふまえ補うようにするための内容であった。

家屋建築に関する注意:

「震後の家屋構造法心得」と同様なもので、震災予防評議会から出された。

巡回指導

京都府技術員を府出張所に駐在させ、各町村の家屋の耐震構造を知事の告諭に基づき巡回指導している。

復興展覧会

耐震住宅の建築模型や耐震設備模型、そのための諸材料などを展示していた。

資金貸付による自力復興

峰山町の住宅復興は、個人への資金による自力復興がほとんどであった。

再建の仕方 ①勤め人や機織り業の人などが、従来の土地に再建

②町内で商売にとってより便利で有利な場所へ移転

③町外へ移転

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 貸付資金額の大きさと町民の生活安定への強い気持ちにより、バラック建設についても本建築についても、住居の安定はかなり早い段階で整ったといえる。

・ 建築に関しては、構造法に対する指導要領などは出されたものの、規制はしなかったためどれだけの耐震化が図れたかは定かではない。

・ 耐火という面においても、この頃個人住宅での鉄筋コンクリート造化は困難で、木造での再建に限られた。

・ 区画整理事業の申請が確認されなかったことや復興後の町の様子などから、町全体を通しての防火建築の設定や空き地・公園などによる防火帯の設置もなかったとみられる。

・ 復興後にできあがった町並みは新しい装いを呈しながらも、木造住宅の密集地となってしまった。

出典

越山健治:「大震火災地における復興計画に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期課程修士論文、1997

追谷奈緒子:「小規模都市の災害復興都市計画に関する研究―1927年丹後震災における峰山町―」神戸大学工学部建設学科卒業論文、2002

平野敏右他編集『環境・災害・事故の事典』、2001

函館大火 1934年3月21日

□人的被害 死者:2,054人、 重傷者:2,318人、 軽傷者:7,167人

□焼失区域面積 4,156,680㎡

□焼失建物(住家) 9,534棟 焼失建築面積(住家) 1,060,089㎡

焼失建物(非住家) 1,571棟 焼失建築面積(非住家) 119,962㎡

□平均延焼速度 1,500m/h 最大延焼速度 1,800m/h

□概要

昭和9年3月21日、発火直前風速18m/sec、6町で漏電、全市停電となっていた。6時30分頃南端住吉町の一角に位置する木造2階建家屋の屋根が烈風により破損、2階部分の炉の残火が風に煽られ発火。火流は風速24m/secと勢いを増す。わずか3時間で火元より4.5kmにまで広がる。発火から鎮火まで約11時間に達した。

大火の特性

①25m/secにも及ぶ風による延焼助長

②火元地点が最南端の風上にあたる場所だったこと

③函館市は過去幾度も火災に見舞われ、そのたび講じてきた防災対策が十分に機能しえなかったこと

【復興プロセス】

応急対策

北海道庁は衣食住の供給の手配とともに軍隊を派遣。市内外から技術者を募集し、ライフラインの復旧工事にとりかかる。

①避難所の設置…小学校、中学校、寺院、病院等を罹災者の避難場所とすることを決定

②仮設建物の建設…住宅、商店、工場等を含む仮設建物37棟を急設(男女中等学校の罹災者)

更に39棟の仮設建物を建設

→収容しきれなかった罹災者は一時避難、個人によるバラック建設などで対応

⇒仮設建物には当初全罹災者の18%にあたる17,084人が居住していたが、1年後には

約1/3の4,984人となっている

住宅復旧過程

大火前の昭和8年10月1日に3,801戸、197,334人であったものが、大火後の同年3月28日の市内居住者は、171,745人(うち罹災者76,413人)となった。罹災者は道内奥地や内地各府県へ避難していたが、市内の秩序回復とともに帰還し、同年6月30日には177,351人まで回復した。これは前年末人口を基準にすると89,9%の帰還率となる。

土地区画整理事業

当事業は旧都市計画法第12条に添う組合施行方式。区画整理に要する経費は市が負担。実施状況は昭和9年までにほぼ換地予定地の決定をし、昭和9年~11年の3ヵ年に全家屋の移転終了。

①土地の所有者が少数の地主であったためそれほど権利関係が複雑でなかったこと

②復興に対する市民の意識が高かったため理解を得やすかったこと

③戦前の行政の執行力が強かったこと

によって土地区画整理は比較的スムーズにいった

【評価と教訓】

歴史的意義

函館大火は関東大震災と戦災の間に位置し、復興都市計画手法での影響力は大きい。「市街地大火=土地区画整理」という手法が確立したのもこの頃である。また緑地帯、広幅員街路による延焼遮断帯の形成は函館の復興計画にも用いられ、後の市街地大火の復興のお手本となっている。

おわりに

函館市の復興計画は、歴史的に見ると重要なところに位置づけられ、その計画における緑樹帯計画は現在においても参考にすべきものといえる。

区画整理等の復興手法は、現在では当時と社会状況等の変化によりそのまま活用することは難しい。しかし、防災都市を建設していく上で、市民の防災に対する意識関心を高めること、今後目指すべき都市像をはっきりさせること、またそれに対する市民の合意を得ておくことは、今日でも重要な教訓といえる。

出典

昭和63年度 日本建築学会近畿支部 研究報告集

「昭和9年 函館大火の復興計画に関する研究 -その1 大火の概要」

「昭和9年 函館大火の復興計画に関する研究 -その2 復旧・復興計画」

室崎益輝、大西一嘉、坂口美加、友久ミキ

昭和南海地震 (M=8.0) 1946年(昭和21年)12月21日 午前4時19分

□ 被害地域 和歌山県・高知県・徳島県など紀伊水道周辺

□ 被害の大きい都市 高知県中村町周辺、和歌山県田辺市、海南市、新宮市

□ 人的被害 死者1,330人(高知県670人、和歌山県195人他)

□ 建物被害 全壊9,070戸(高知県4,834戸、徳島県1,076戸他)

焼失家屋2,598戸(和歌山県2,399戸)

焼失家屋1,451戸(高知県566戸、徳島県536戸)

□ 概要 紀伊半島の近傍を震源とする大地震。日本の太平洋岸におけるプレート型地震。都市部での被害は少なく、被害総数は地震規模からすると少ない値である。しかし、地震動の分布域は広く震度5の地域が三重県から宮崎県さらに熊本県まで広がっている。地震被害は、地震動より津波で発生し、房総半島から九州に至る沿岸部を襲った。死傷者数はむしろ津波によるものが多い。津波の周期が震央の近くで10~20分ほどで、地震後まもなく津波が生じた地域で被害が大きくなっている。

【復興プロセス】(新宮市の復興事例)

戦時に入り、昭和19年の東南海地震によって沿岸部で全壊100戸、死者6人という被害を出し、さらに空襲により、上熊野地を中心に大きな被害を出した。そこに南海地震が生じ、連続して災害に見舞われることになった。市内は地震直後に火災が発生し、この火災によって新宮市の中心部を焼き尽くした。

「新宮市復興計画」

戦災復興計画の計画段階に地震に遭い、空襲被害とは別の地域が被害を受けたため、両方同時に戦災復興として事業が行われた。計画面では戦災復興計画の流れを受けている。区画整理事業において狭小敷地に関して増換地がなされ、その上で事業が成立している点が特徴的である

復興理念及び復興計画策定の過程

・戦災復興に吸収

・新宮市の復興対策を県下全般の復旧とは切り離して計画を企てる

・予算としては別枠で新宮市復興関係として応急対策・公営住宅・土地区画整理事業に関して2610万円を組んでいる

復興事業

復興計画事業案:

「新宮市復興都市計画」…区画整理事業と土地利用計画

区画整理委員会を設立(昭和22年)

市街地建築物法建築制限令…無秩序なバラック建設を防ぎ、事業の進展を進めた

土地利用計画:

市域の北端に偏在していた利用形態から、整然とした、利用程度の良い都市の建設

街路計画:

既往街路を利用し、それを拡幅する計画

主要道路は従来6~7m程度であったが、これを15~18mに拡幅⇒防災、保険、美観

復興土地区画整理事業:

区画整理により、空襲及び震災による跡地整理と共に整然たる区画を形成し、交通の便を兼ねる

昭和22年7月19日 新宮市特別都市計画事業戦災地区復興土地区画整理施工規定

昭和23年1月10日 震災地区復興土地区画整理施工規定 を定めた 公園の配置はできず

換地事業:

新しい公共用地を作り出すために土地所有者は約1割の減歩を行った

狭い土地所有者を増換地などで対処

復興資金

昭和21年度から28年度までの戦災復興事業費の合計は26,492,554円

(そのうち国庫補助金額は13,722,569円であり、補助率は51.8%)

【住宅再建の方式】

①国庫補助による応急住宅、庶民住宅などの建設

②住宅の復旧については特に金融措置、建築許可手続き、資材の入手使用などにつき、便宜の取り扱いを受ける

③復興用材に充填するための国有林の払い下げを受ける

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・中心地区に関して震災を期に、区画整理を施工し、国道の幅員を拡幅、その周辺の街路・街区共に整備することで、土地の利用効率が上がり、防災的にも有利になった

・同時に都市水利の整備、防火施設設備の完備を行い近代都市の形成を目指したので、安全性にも配慮した快適な空間を持つ新市街地が完成した。

出典

越山健治:「大震火災地における復興計画に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科

博士前期課程修士論文、平成8年度

福井地震 (M 7.3) 1948年 6月28日

□人的被害 死者:3,848名 行方不明者:10名 傷者:21,790名

□火災件数 29件

□建物被害 全壊:36,184棟

□概要

1948年 6月28日16時13分頃、福井県丸岡町付近を震源とするM 7.3の地震が発生した。直下型の断層型地震であり、震源は浅く、九頭竜川流域をなす沖積層の福井平野部で全壊率が60%を超えるなど被害は甚大であった。多数の建物が倒壊し、その下敷になり圧死する人が続出した。数分後には各所で火災が発生し、全市に猛烈な勢いで広がった。また、戦災復興途中の仮設建築物が残っている状態での災害であることも被害拡大の要因となった。

【復興プロセス】

戦災復興中に地震被害を受け、再びその計画を立て直した。基本的には戦災復興事業として行われている。福井市では、地方都市の優遇や震災による繰り返しの被害、県庁所在地としての主体性、などの条件から、大規模な道路計画、区画整理事業、公共土木事業を完了させていることが特徴的である。また、戦災後のバラックの解消が当時の課題であった。しかし、「転禍来福」という言葉に表されるように、この災害を都市改造の好機ととらえ、住民側の負担を暗に示すものでもあった。丸岡町では、国宝丸岡城の復興を復興のシンボルとすることで住民意識が高まった。

【住宅再建の方式】

住宅復興

より迅速な再建が重要視されたため、罹災建築物の再建については原則として許可は不要。その影響もあってか震災から3ヶ月後には復旧率は85%にまで達した。

防火建築対策や不急用途建築に関する特別な措置も講じられ、安全面への配慮も実施。耐震防火建築の奨励も行われた。

公営住宅の建設

1戸7坪の敷地をもって木造平屋建5,000戸の公営住宅を計画。7月25日、2,800戸が公共事業として認められ、事業資金の4分の3が国庫の補助によって賄われるかたちで建設の認可が行われた。昭和24年3月末日までに8,138件の貸与が完了した。

個人住宅の建設資金の融資

全焼または全壊住宅(農家)に重点を置く、小住宅の優先、応急的仮設バラックは対象としない、自己資金のみによる建設能力のあるものや返済能力がないものは対象としない、不要不急のものや貸家は対象としない、併用住宅は対象とするなどである。

間貸住宅事業

資金、資材の状況から最も困難な状況にあったのは借家住人と同居間借人であった。半壊の被害を受けた比較的ゆとりのある大きさの住宅において、自力にて補修困難な者に対して建設費の補助を行い、これらに住宅のない罹災世帯を収容することを目標とした。建設省等の支援もあり、間借住宅は少なくとも1,400戸の竣工を実施した。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・より迅速な再建が重要視され、震災から3ヶ月後には復旧率は85%にまで達した。

・資材の輸送に大きな支障が発生した。事業本体に取りかかる以前の作業に追われた。資材そのものに関しては業者の手持ち品を一時立て替えさせるなどの対策がとられた。

・公営住宅の建設において、敷地の選定および決定に多くの時間が費やされた。また、決定された敷地が繰り返し変更されるなど遅々として進まなかった。

・公営住宅の建設は、悪条件にもかかわらず年末には8割に迫るまで再建し、住宅対策に大きな役割を果たした。

出典

越山健治他:「日本における過去の復興都市計画の比較研究」、地域安全学会論文集 №1、1999

木村康隆:「福井地震復興計画に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期課程修士論文、1999

鳥取大火 1952年4月17日2時55分

□ 人的被害 死者:3人 重軽傷者:3965人

□ 火災被害 消失戸数:7240戸 消失面積:160ha余り

□ 被害総額 192臆円(推定)(ちなみに当時の県予算は32億円)

□ 概要

戦後頻発していた地方都市の大火事例の一つ。鳥取市永楽荘通りにある空き家のぼや騒ぎから始まった火災は、フェーン現象の影響による折からの強風(天気予報によると毎秒15~20mの南風)にあおられ消防隊のなすすべもなく燃え広がり、鳥取市内の大部分を焼き尽くした。大火に発展した要因としては、気象状況、先の鳥取地震の後に立てられたバラック建築群、粗末な消防体制の3点が挙げられる。9年前に発生した鳥取大震災の復興に追い討ちをかける形となった。頻繁に発生した都市大火の中でも焼損面積・棟数・罹災人員など最大級の事例である。

【復興プロセス】

鳥取市は1943年に起こった鳥取地震の被害からの住宅復興、地方中心としての再整備を試みているときでもあった。

・建築基準法第84条における「被災地域における建築制限」

建築制限の期間は1ヶ月であったが、区画整理や感知計画の遅れによって、さらに1ヶ月延長された。復興を急ぐ市民の中にはその禁制を犯して都市計画道路標識内に建築するもが続出し、県や市ではガスや水道停止などの非常措置を取った。

・消費型都市から生産型都市への脱却(既存計画の見直し)

・鳥取市復興計画

1) 延焼遮断帯による都市の分断

2) 耐火建築促進法による復興計画

災害規模が大きいため鳥取県が中心となって計画事業にあたった。1km以上に及ぶ防火建築帯、さらに緑地公園も使用して市域を4分割したなどの防災手法もさることながら消費型都市から生産型都市への脱却へと大規模な都市性の変更に挑戦した事例である。

特徴

【住宅再建の方式】

・災害救助法に基づく応急仮設住宅の建設

市街地がほぼ焼失していたため、建設地としては市街地から少し離れた荒地などを使用した。これはその後のスラム化を進める要因にもなった。

・耐火建築促進法の適用

この年の5月、都市防災計画を進めるために耐火建築促進法を施行した。戦後の混乱期で消防機能が低下し、区画整理が行われていなかったことなどから多発していた都市での大火に備えるためであった。鳥取市は同法の適用を受けた第一の都市である。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・耐火建築促進法がはじめて適用された都市として、街道沿いの商店が防火建築に立て替えられるなどの措置がとられた。

・大火を教訓にしてのまちづくりが進められ、街路の拡幅、公園の整備などが実施され延焼防止の措置がとられた点において「近代的不燃都市」へと変貌していったことが評価される。

・鳥取地震の後に立てられたバラック建築の問題が明るみになった。(延焼の拡大要因)

出典

越山健治:「日本における過去の復興都市計画の比較研究」、地域安全学会論文集No.1、1999.11、P189-P194

多田順治:「大規模災害時における住宅復旧過程に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科修士論文、1988

新潟地震 (M7.5) 1964年6月16日午後1時01分

□ 人的被害 死者:26人

□ 火災件数 290棟(焼失家屋)

□ 建物被害 全壊:1960棟 半壊;6640棟 浸水:15928棟

□ 概要

新潟県沖で発生した地震。新潟市内では震度5強の地震であった。地震被害は大きくないが石油タンクの爆発による大規模火災が発生した。また津波が起こり日本海沿岸に来襲した。この災害の特徴は、振動による被害よりも2次災害による被害が大きいということにある。特に河口埋立地での液状化現象による建物、堤防、ライフラインなどの構造物を倒壊破壊し、新潟市の住宅のおよそ2割が浸水した。被害が拡大した原因としては都市が信濃川河口の低湿地の埋立地に立地していたうえに、天然ガス汲み上げによる地盤沈下が進んでおり、市街地の80%以上は海面より低い状況にあるといったことがあげられる。現代の工業化と地盤との関係をついた地震であった。

【復興プロセス】

・復興計画の概要

市民の生命・財産の安全の確保を最重点とした防災都市建設を目標

地震復興に当たっては、港湾・河川等の後背地を水から守るための護岸計画を早急に実施し、経済か活動の停滞を防ぐため道路、鉄道などの復興を並行して進められるようにした。

【住宅再建の方式】

百万都市を目指して発展を続けてきた新潟市は、地震前から住宅不足現象が現れていたが、地震によりさらに顕著になった。

・応急仮設住宅の建設

6月18日には仮設住宅の建設を決め、結果として636戸(新潟市内)という普通の災害では見ることのできない多数の仮設住宅が建設された。短期間に建設しなければならず木造だけでなく組立式のプレハブ住宅も採用された。

・困窮被災者への対応の遅れ

半壊などの一部補修を行えばどうにか住める状態にある人々たちの中には、資産のないも多くいた。それらの人々への対応は仮設住宅の建設の人手不足により対応が遅れた。

・災害公営住宅の建設

県で150戸、市で150戸あわせて300戸の災害公営住宅が建設された。低所得者への対応。

・住宅金融公庫の大幅な災害特別融資による再建、補修

住宅金融公庫による災害復興住宅貸付及び個人住宅災害特別貸付の申し込み受付を開始するとともに、災害復興住宅の建設のために貸付限度額を耐火・簡耐火、木造分ともに現行から引き上げる措置をとった。

・安全な地盤への再建設

今回は地盤の弱い場所に建てられた建物の多くが傾斜、倒壊するなどの被害を受け、安全な地盤上で

の建設が進められた。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・鉄筋コンクリートの住宅が倒壊するなど地盤の液状化現象による被害が大きくクローズアップされ、建築物基礎の重要性を認識することとなった。

・地震保険の誕生

新潟地震がきっかけとなり、1966年に「地震保険に関する法律」が制定され、国が地震保険をバックアッブする(国が再保険を引き受け、地震災害が発生した場合に国も一定割合の責任を分担し保険金を支払う)ことで、地震保険が誕生し災害時における住宅再建の新たな糸口となった。

・建物全壊の被害者だけではなく、修繕などの費用を十分に用意することのできない困窮者に対しても迅速な対応をとり、できるだけ早くにもとの生活にもどれるようにしなければならない。

出典

越山健治:「大震火災地における復興計画に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期課程修士論文、1997

新潟市:新潟地震誌

酒田大火 1976年10月29日

□人的被害 死者:1人 傷者:964人 罹災世帯:1017世帯

□建築被害 焼失戸数:1774棟 焼失面積:22万5000㎡

□概要

・1976(昭和51)年10月29日午後5時40分、山形県酒田市中町にある映画館グリーンハウスのボイラー付近から出火し、翌30日午前5時に鎮火した。

・大火災になった原因として、

① 出火場所が繁華街の中心地で戦前からの古い木造大建築物

② 気象条件が異常乾燥下で瞬間最大風速20m/s 以上

③ 通報の遅れ消防車の数の少なさなどの消防力の弱体さ

があげられる。

・戦後の大火の頻発期から数十年が経過し、都市大火の危険性の認識が薄れてきた頃に発生した災害で、都市大火の危険性の内在を改めて認識させた災害である。

【復興プロセス】

・復興計画の基本方針「防災都市の建設」

① 将来交通量に対応した幹線道路の整備

② 近代的な魅力ある商店街の形成

③ 住宅地の生活環境の改善整備

④ 商店街と住宅街の有機的な結びつけ

・土地区画整理事業

大火後3日間で復興原案作成(以前からの強い意欲、潜在願望)

初期1ヶ月 県が区画整理の事業主体に決定

2ヶ月 国の事業認可を受ける

7ヶ月 仮換地指定

8ヶ月以降 上物整備の3つの柱

市街地再開発事業 中心部を再活性化して商業中心を奪回するため

商店街近代化事業

住宅金融公庫融資 激甚災害指定により年利3%

【住宅再建の方式】

応急仮設住宅:被災者から被災地に近い場所への設置されるようにとの要望もあり、最終的には6ヶ所に分散して、1976/12/20までに198戸のプレハブ住宅を設置した

仮設店舗:拡幅される道路の両側を線引きし、238店舗が建設、年末から年始にかけて営業再開

災害公営住宅:山形県および酒田市がそれぞれ昭和51年度事業で、市内若宮町に建設中の一般公営住宅を災害公営住宅に切り替え、該当者を入居させた(県営:24戸、1976/12/28 市営:24戸、1977/2/1)

建物の建設:一般住宅が先行し、大火後8ヶ月から1年前後、商店街復興は大火後1年から1年半にピークを迎える

大火後2年半の昭和54年5月には市が復興宣言をおこなうという異例のスピード

市が用地買収することで、減歩率12.3%に抑えられた

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・建築制限が可能であった

① 大火を契機として市街地大改造への合意形成がなされた

② 市街地整備像と事業手法の掲示が迅速であった

③ 被災者の一部を受け入れることの出来る吸収用用地が郊外部に存在した

④ 手続きが重視されると同時に、重要な時には思い切った手続き突破が敢行されたこと

(大火直後より復興告知板を各家庭に連日配布→復興に関わる動きの把握、必要な手続きが可能で、区画整理における仮換地指定前における整地作業開始の迅速化につながる)

⑤ 国、県の全面的バックアップがあった

・大都市における大震火災と酒田大火は全く異質の問題であり、別途に検討されるべきであるが、大火・震災以前に追求すべき都市像、市街地整備像を持っていれば、復興が力強いものになる(大火以前の構想、熱意が大火を契機として一気に実現への糸口を見出した)

出典

越山健治他:「日本における過去の復興都市計画の比較研究」地域安全学会論文集No.1,1999.11

新時代の都市政策8 都市防災

平井邦彦:「酒田大火と復興都市計画」、都市計画 昭和60年5月

宮城県沖地震(M7.4) 1978(昭和53年).6.12 17:14

〔死 者〕 28名

〔傷 者〕 10,962名

〔火災件数〕 12件

〔建 物〕全壊1,383棟 半壊6,190棟

〔危険物〕 屋外タンク5基低部亀裂(流出油68,200kl)

・ 被害の発生が地盤条件等により大きく影響され、地域によって偏りが見られる。

・ 特に都市部のスプロールにより丘陵地を造成した新興住宅地の被害が大きく、また電気・ガス・水道等のライフラインが大きな被害を受け、ライフラインの機能障害による間接的被害が長期化するなど、これまでにない「都市型地震災害」としての特徴をもつ。

・ ブロック塀の倒壊による死者が多く、また、コンビナート地域の被害が発生。

【復興プロセス】

復興事業

防災集団移転促進事業:

宅地崩壊が著しく、地盤調査の結果軟弱地盤で、技術的対策では対処ができない仙台市の緑ヶ丘1丁目及び3丁目の20戸を集団移転させる。集団移転には、利子補給等が行われたが1年以内に住宅を建てて移転することが条件であった。

がけ地近接危険住宅移転事業:

がけ地近接危険戸数の調査を行い、松島町の11戸を対象に、がけ地近接危険住宅移転事業を実施した。

【住宅再建の方式】

応急仮設住宅の供給

仙台市で70棟、泉市で5棟、小牛田町で7棟、鳴瀬町で5棟の応急仮設住宅が供給された。仙台市では、被害の大きかった地区に重点的に仮設住宅が供給された。(70棟中66棟が長町7丁目に建設される。)入居期間は2年以内。

住宅団地復興対策

住宅団地の災害復旧に関し、1ha以上の団地に最高限度500万円の補助を行う制度が創設された。

公営住宅等の供給

り災者を公営住宅、公団住宅、公社住宅へ優先入居させる。仙台市では、り災者市営住宅が30戸建設される。

利子補給・融資

被災直前の建物価格の5割以上の被害があった場合を対象に、住宅金融公庫の災害復興住宅資金の融資制度が適用される。また、その上乗せとして、貸付総枠10億円、貸付限度額200万円、年利5.05%、償還期間10年の宮城県災害復興住宅建設資金制度が創設される。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 個人住宅の復興に際し、融資、租税、その他の減免措置が取られたが、被災者の負担を軽減させるものとはならず、修復の不徹底さ、遅れ等がみられ、新たな住宅選定の際にも地震の教訓が生かされないなどの問題が生じた。

・ 応急仮設住宅の建設に際して、当初は長町7丁目に50戸、西勝山団地に20戸を建設する予定であったが、長町仮設住宅への入居希望が建設戸数を上回ったため、西勝山団地に建設したもののうち16戸を長町へ移設している。被災者の要望に応じて被災地に近い位置に仮設住宅が設置できるよう考慮されている。

・ 住宅個々の被害が個人災害ではあるが、それらが立地している地盤が破壊し、集合的一体的に被害を受けたという問題の社会性を考慮し、防災集団移転促進事業が行われた。これは、個人災害に対して公共が関与したという点で住宅災害の復旧に対する新しい対応の方向として評価された。

出典

宮城県総務部:「1978年宮城県沖地震災害の概況-応急措置と復興対策-」、1978.12

仙台市総務部防災対策室:「1978年宮城県沖地震①災害の記録」、1979.6

仙台市総務部防災対策室:「1978年宮城県沖地震③教訓と防災都市」、1981.3

日本海中部地震 (M=7.7) 1983年(昭和58年)5月26日 正午12時00分

□ 被害の大きい都市:秋田県北西部および青森県西部

□ 人的被害 死者104人(津波による犠牲者100人)

□ 建物被害 全壊 1,584棟 半壊 3,515棟 一部破損 5,954棟

□ 概要 日本海中部地震は、秋田県能代市沖で発生し、マグニチュード7.7という巨大地震波の規模であった。それによる被害は13都道府県、217市町村におよび、特に震度Ⅴの強震を受けた秋田県ではその被害の7~8割が集中した。この地震により、死者104名を出したが、そのうち津波による者が100名を数え、「津波災害」であったといえる。また、建物に関しては、先の新潟地震でも見られた地盤の液状化現象による被害が発生し、いわゆる「地盤災害」が特徴的であった。

【復興プロセス】

日本海中部地震による避難は、津波の警戒警報が発令された一時期で、他の災害に見られるような長期の避難生活はなかった

応急仮設住宅は建設されたが、手狭であったこと、被災地から離れた場所に建設されたこと、などが理由でなかなか入居希望者数が増えず、満杯になるまで1ヶ月以上かかっている。つまり、この災害での生活関連事項の課題は、主に被害を受けた住宅の復旧、特に液状化現象によって崩壊した地盤も含めた恒久的な復旧が大きな課題となった。

本地震による住宅被害の特徴は、地盤の液状化現象が原因となり家屋自体の完全な倒壊は少なくもっぱら基礎の部分の崩壊が目立った。そのため住宅の復旧は、建物をあげて基礎工事を行う「揚げ屋工事」によるものが多かった。

【住宅再建の方式】

応急仮設住宅の設置

災害救助法の適用(秋田県内:94戸 青森県内:155戸)

避難所設置・応急仮設住宅建設は大規模なものではなく、利用者も少なかった

地震直後の住宅再建施策…「災害救護資金」、「災害復興住宅資金」

住宅の修理費は、半壊家屋の低所得者対象に、1戸19万6千円を上限に支給

災害救護資金:住宅半壊以上の場合 年利3%、3年据え置き、10年償還と有利であるが、所得制限あり

住宅金融公庫災害復興住宅資金:建設資金は木造800万円、耐火構造910万円

補修資金は木造400万円、耐火構造450万円

この他に敷地・移転のために250万円、土地取得に500万円の融資

※融資条件は、いずれも年利5.05%で、建設の場合は、全壊認定で、3年据え置き、償還期間は簡易耐火30年、木造不燃25年、補修の場合は、10万円以上の被害建物に対し、1年据え置きで、10年の償還期間となっている

住宅建築指導

被害住宅の復旧に関する留意点をまとめたパンフレット作成し、住宅相談の窓口を開設

(人工地盤や砂質地盤などの軟弱地盤地に住宅について、基礎あるいは宅地の土留擁壁の施工方法および宅地の液状化防化法についての指導)

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・一般住宅の再建は早い人は6月に始めたが、全体の再建は遅れた。被害が新興住宅地に多く、住宅のローンの返済がすまないうちに今回の地震にあった人が多く、再建のための資金繰りのめどが立たないという人が多かったためとされる。

・被害を受けた家屋の多くは雪の降る前に一応の復旧を終えているが、原型復旧することができず、一部補修で済ませた人が多く、中には資金繰りの関係で再建をあきらめてしまう人もいた。

・青森県車力村富萢では、恒久対策である被災世帯の集団移転が検討されていたが、最終的には希望者が少なく検討は中止された。

・地震後に液状化の危険性のある地区を指定することが論議されたが、地価への影響や指定に伴う作業の難しさなどから実現されなかった。

(出典)

秋田県生活環境部消防防災課:「日本海中部地震の記録‐被災概況と応急対策‐」、昭和59年3月

国土問題研究会:「日本海中部地震とその災害」、昭和59年3月

多田順治:「大規模災害時における住宅復旧過程に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期過程修士論文、1988

住宅復興について被災住民からの相談、指導の窓口を市町村および土木事務所に設置し、住宅金融公庫、金融機関の協力のもとに、建設、補修など災害復興資金の融資制度、融資条件などの相談を行った

・日本海中部地震災害復興住宅建設資金利子補給費補助金

・日本海中部地震災害復興住宅建設資金

融資限度額の引き上げ、融資条件の緩和

住宅金融公庫の災害復興住宅建設資金の貸付限度額にさらに300万円のかさ上げする協

調融資制度

市税の減免 「災害による被災者に対する市税の減免に関する条例」

雲仙普賢岳噴火災害

□ 人的被害 死者:44名 行方不明者28名 傷者:11名

□ 建物被害 2593棟(島原市のみ)

□ 概要 平成2年(1990年)11月7日、山頂付近の九十九島火口、地獄跡火口から噴煙が上がり噴火した。その後、平成3年2月12日に新たな火口が出現、5月15日に初めての土石流が発生し、それを皮切りに避難勧告が出され避難生活が始まった。5月24日には初めての火砕流が発生、続く6月3日の大規模な火砕流で死者行方不明者43名、負傷者9名などの被害が発生した。6月7日には警戒区域が設定され、住民の立ち入りが禁止された。その後も、相次ぐ土石流・火砕流などによって被害が拡大した。平成7年2月になってようやく溶岩ドームの成長が停止し、平成8年6月3日に「噴火活動の終息宣言」が出された。噴火活動が本格化してから5年もの長期間の災害であった。

【復興プロセス】

復興計画策定の経緯

災害復興計画は長期化する火山災害の中で、復興の指針を示すために極めて重要であり、国や長崎県との調整及び住民の意向を把握しながら策定される必要があった。

復興計画の基本方針

生活再建、防災都市づくり、地域の活性化を3本柱に、地域にとって整合性のとれた復興となるべく国や県の事業との体系化を図った

復興事業

防災集団移転事業:

住宅に被害を受けた者、あるいは「災害危険区域」内に居住している者を対象に10戸以上の地域の者の合意の上、移転先で団地を形成し住宅を建設又は公営住宅へ入居する。移転跡地は、砂防事業区域は砂防事業によって買収される

がけ地近接等危険住宅移転事業:

住宅に被害を受けた者、あるいは「災害危険区域」内に居住している者を対象。個々の住宅での移転が可能であり、住宅を建設又は購入をする必要がある。移転跡地は、砂防事業区域は砂防事業によって買収される

砂防事業等:

砂防計画に基づき、地域の安全を確保するため、土石流対策のための砂防・治山ダム群をはじめとする防災施設の整備を推進している

安中三角地帯嵩上事業:

土石流による被害の不安が大きい安中三角地帯を嵩上げし、土地区画整理事業で整備

【住宅再建の方式】

応急仮設住宅等の供給

1991年10月23日 1455戸全ての応急仮設住宅への入居が完了

※ 寄贈分を含めると最終的には1505戸となり、11月28日に入居が完了

仮設住宅のゆとり化モデル事業(1992年6月25日):仮設住宅のグレードアップ

家財置場のための倉庫等確保助成事業(1992年10月28日):倉庫として仮設住宅を利用

避難住宅家賃助成事業(1991年11月20日):賃貸住宅等入居者に対して家賃補助

移転費用助成事業(1992年10月8日):仮設住宅等からの一時移転に対し費用を助成

公営住宅等の供給

中・長期的な対策として1991年度より公営住宅が建設

借上復興住宅:復興住宅の上積み対策として、民間賃貸住宅を5年間借り上げ

地域特別賃貸住宅促進助成事業(1992年10月8日):民間賃貸住宅の建設費助成

住宅確保助成事業(1993年6月4日):将来にわたって住居を建設しない者に対する助成

個人住宅の建設

住宅再建時助成事業(1993年2月~):住宅再建費・改修費の助成

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 災害と都市の規模的に希望者全員分の応急仮設住宅の建設が可能であった

・ 応急仮設住宅の供与期間や使用用途、住宅設備・費用等が災害救助法の基準を超え弾力的に運用された

・ 雲仙においての公営住宅の供給は、短期(緊急)対策、中期(つなぎ)対策、長期(復旧、恒久)対策と多様な住宅が段階的に建設され非常に弾力的である

・ 災害の長期化に伴い、助成金事業の開始や移転の団地の造成までに時間を要し、個人住宅の再建時期に大きな遅れが生じた

・ 再建までには多様な過程が存在し、公営住宅や借上復興住宅等が供給されたが、最終的な住宅は公営住宅でなく、持家の再建に至っているケースが多い

出典

二宮和弘:「災害時における住宅再建過程に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期過程修士論文、2001

高橋和雄:「島原復興を支えた復興計画」、日本建築学会総合論文誌第2号「災害からの復興と防災フロンティア」、2004

北海道南西沖地震 (M7.8) 1993年7月12日

□ 人的被害 死者:202名 行方不明者28名 傷者:323名

□ 火災件数 9件

□ 建物被害 全壊:608棟 半壊:408棟 一部損壊:5,490棟

□ 概要

平成5年(1993年)7月12日22時17分頃、M7.8の地震が、北海道南西沖で発生した。奥尻島での震度は5~6であったと報告されている。本震から約5分後の22時22分には、大津波の津波警報等が発表された。しかし、奥尻島への津波の第一波は地震発生後間もなく来襲していたと推測され、この後も津波は繰り返し来襲し、長時間継続した。奥尻島での最大波高は、青苗地区西部で13m、初松前地区で21m、藻内地区で29mを記録した。

この地震に伴い火災も発生し、青苗地区での建物火災は翌朝9時20分に鎮火するまで広範囲にわたって延焼が続いた。そのため、津波の直撃を受けた市街地の被害にさらに拍車がかかり青苗地区の市街地は壊滅状態に及んだ。

【復興プロセス】

復興計画の基本方針

「安全なまちづくり」、「豊かなまちづくり」「快適なまちづくり」を三本柱に

復興計画策定の経緯

「全戸高台移転案」「一部高台移転案」の2つの計画案の中から、「一部高台移転案」可決

復興事業

防災集団移転促進事業:

防潮堤による津波に対する安全対策が無理と判断された地区を防災集団移転促進事業地区に指定し、新たに団地造成を計画し集団移転を図った

漁業集落促進移転事業:

漁港背後の低地部に適用し、宅地の盛土、集落道、下水道の整備等を伴う団地を造成

【住宅再建の方式】

応急仮設住宅等の供給

1993年8月27日 330戸全ての応急仮設住宅入居希望者全員の入居が完了

冬季暖房用灯油等購入費助成事業:越冬対策としての灯油の購入費を助成

応急仮設住宅移転費用助成事業:応急仮設住宅から自宅等への移転費の一部を助成

公営住宅等の供給

自力再建を目指す世帯が増えたことでの、建設計画の計画変更の過程を経て104戸が建設

個人住宅の建設

青苗地区や初松前地区においては、防災集団移転促進事業、漁業集落環境整備事業等に指定され、新しく区画を造成した団地及び高台の既成市街地に個人の住宅を再建した

住宅取得費助成事業:住宅を取得又は大規模修繕をする場合の経費の一部助成

住宅基礎上げ工事費助成事業:海岸沿いに住宅再建する場合の基礎建設経費の助成

住宅解体費助成事業:被災住宅の解体費の一部助成

家具・家財購入費助成事業:住宅取得費等の支援として、家具・家財住宅購入費の助成

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 災害と都市の規模的に希望者全員分の応急仮設住宅の建設が可能であった

・ 応急仮設住宅の住宅設備・費用等が災害救助法の基準を超え弾力的に運用された

・ 復興事業計画案の検討過程において、住民特に漁業者の意向が反映されらなど、行政と住民の間に密なコミュニケーションが図られ、合意形成に至っている

・ 多くの義捐金のもとにした復興基金によって、個人による持家再建の負担軽減に大きな効果があり、自力再建を目指す世帯が増えた

出典

二宮和弘:「災害時における住宅再建過程に関する研究」、神戸大学大学院自然科学研究科博士前期過程修士論文、2001

南慎一:「奥尻島青苗地区の災害復興20年」、日本建築学会総合論文誌第2号「災害からの復興と防災フロンティア」、2004

阪神・淡路大震災 (M7.2) 1995年1月17日

□ 人的被害 死者:6,433名 行方不明者3名 傷者:43,792名

□ 火災件数 294件

□ 建物被害 全壊:100,900棟 半壊:144,256棟 一部損壊:263,690棟

□ 概要

平成7年(1995年)1月17日5時46分頃、M7.2の地震が淡路島北部で発生し、阪神間をはじめ広範囲にわたって強い地震動を受けた。この地震の発生直後に行った現地被害状況調査結果では、神戸市の一部地域等においては震度7であったことが確認された。この直下型地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」と命名したが、被害の規模が非常に大きく、また復旧・復興施策の推進の際に統一的な名称が必要である等から、平成7年2月14日に「阪神・淡路大震災」と呼称することを決定した。

この地震による人的被害は、戦後最悪の極めて深刻な被害をもたらした。

【復興プロセス】

住宅再建支援施策

兵庫県や神戸市は、住宅復興や住宅整備のため3ヵ年計画(「ひょうご住宅復興計画3ヵ年計画」、「神戸市震災復興住宅整備緊急3ヵ年計画」)を策定

「拠点復興方式」による市街地復興

神戸市では、復興計画の枠組みとして、「重点復興区域」「震災復興促進区域」を設定

重点復興区域においては、震災復興土地区画整理事業や震災復興再開発事業地区の設定の他に、住宅市街地総合整備事業や密集市街地総合整備事業等による復興が図られた。

【住宅再建の方式】

単線型の住宅再建

仮設住宅の提供と、それに続く復興公営住宅の供給を基本とした単線型の住宅再建を展開

公的な再建支援策・・・「住宅供給」、「家賃補助」、「低利融資」

住宅供給:兵庫12.5万戸の恒久住宅(うち約4万戸は災害復興住宅等)を図った

家賃補助:公営住宅、民間賃貸住宅居住者に対して、家賃の減額および家賃補助

低利融資:持家の自力再建者に対して、低利融資および利子補給対策

※ 長期化が予想された仮設住宅は、5年間で解消

災害復興公営住宅の供給

行政には、災害復興公営住宅を大量に供給するシステムが存在

郊外の大規模開発予定地などの敷地に、大量に建設した

市街地での住宅再建

都市計画事業地域では、事業計画や手続きに時間がとられ、住宅再建が長期化した

その他の地域では、任意の都市計画事業が用いられたところもあるが、ほとんどが自力での住宅再建を図った

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 単線型の住宅再建支援によって、自力再建可能層と自力再建困難層を明確に分ける結果となった

・ 被災者全体に対しての公平な住宅支援策がなされず、中間層や持家層に大きな経済的な負担(二重ローンなど)を強いた

・ 大量の住宅を約5年の短期間で供給できたことは評価できる

・ 復興まちづくり協議会に代表される市民参画型のまちづくりシステムや、共同立替えに代表される相互扶助型の住まいづくりが生み出された

・ 従前居住地での住宅再建が図れず、コミュニティの解体を招いた。

→事前復興段階からの対策

→既存の空き住宅ストックの有効活用

・ 公費での解体が認められたため、まだ使える既存のストックも取り壊された

・ 「共助」の精神に基づく住宅再建支援制度の提案

・ 現行制度において、区分所有建物の補修・再建の合意形成が大きな課題となった

出典

室崎益輝他:「阪神・淡路大震災後の被災住宅再建過程と被災8年後の再建住宅の実態」、地域安全学会梗概集No.13、2003

内閣府HP:「阪神淡路大震災震災教訓資料集」http://www.hanshin-awaji.or.jp/kyoukun/

中林一樹:「阪神・トルコ・台湾の震後比較と学ぶべきこと」、地域安全学会梗概集No.10、2000

有珠火山噴火 2000年3月31日午後1時10分頃

□ 人的被害 無し

□ 住宅被害 全壊119棟 半壊355棟 一部損壊376棟

□ 被害額 260億円

□ 概要

北海道の有珠火山が2000年3月31日午後1時過ぎ噴火した。有珠山の噴火は1977~78年の噴火以来である。有珠山では、噴火の4日前から群発地震が発生しはじめており、身体に感じる地震が急増した29日に気象庁は、噴火の可能性が高いとした緊急火山情報を発表した。噴火の前に緊急火山情報が発表されたのは初めてのことであった。

有珠山北西麓の西西山西麓と金比羅山の火口で水蒸気爆発を繰り返したが、次第に噴火活動は低下、地下のマグマ活動は終息した。金比羅山火口での活動は2001年9月まで続いたが、現在、両火口から噴石や火山灰の放出は停止している。

【復興プロセス】

有珠山周辺は土地利用が進み、火山に近接して多くの住民が生活し、地域の基幹産業である観光業が営まれている地域である。

基本方針

・次の噴火に備える

・観光客の集まるまちづくり(火山活動のつめ跡を資源として利活用)

有珠山は20世紀だけで見ても4回の噴火を繰り返し、そのたびに大きな被害を受け住民が避難生活を余儀なくされてきた。今後も20年から30年の周期で噴火が起こると予想され、復興に当たっては将来の噴火による被害を低減するために、有珠山周辺地域における防災マップに基づく危険度に応じた土地利用区分を定め、効果的に諸施策を推進し、噴火を乗り越え安心して暮らすことのできる活力のあるまちづくりを進めることとする。

主な施策

① 防災マップによる土地利用

② 産業の再生(エコミュージアム構想の推進)と新たな観光整備

【住宅再建の方式】

・応急仮設住宅の供給

仮設住宅733戸 応急公営住宅 359戸 民間住宅31戸提供

計672世帯1550人が入居

・災害関連公営住宅の整備

・被災者生活再建支援法の適用

家屋を失った住民に対し家財購入、住宅移転などの費用を支給。

・ゾーン分類(土地利用区域の設定)

土地利用区分では危険度に応じて全体をA、B、C、Xの四ゾーンに分け、今回の噴火で直接の被害は受けていないが、将来の噴火に備え公共施設や住宅の移転が必要としたCゾーンも当初方針通り設定。復興方針では住宅などの移転について「住民の意向を踏まえ計画的に進める必要がある」としている。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・過去の噴火の経験を活かし専門家と地元行政機関の連携によって迅速な避難措置が取られたために人的被害がなかったことは評価されるが、小規模な噴火にもかかわらず多くの公共施設、住宅等の被害を受け自然災害と向き合う姿勢が改めて問われた。

⇒財産の損失の軽減するための防災まちづくりの必要性

出典

2000(平成12)年有珠山噴火災害と復興計画-災害に強いまちづくりの推進と持続可能な地域社会の形成をめざして-(HP:http://www6.ocn.ne.jp/~jaf03034/usufukko.pdf)

鳥取県西部地震(M7.3) 2000(平成12年).10.6 13:30

〔死 者〕 0名

〔傷 者〕182名

〔火災件数〕 0件

〔建 物〕全壊430棟 半壊3,065棟

・ マグニチュード7.3は、1995年兵庫県南部地震のマグニチュード7.2より大きかったが、被害は兵庫県南部地震に比べて非常に少なかった。

・ これは発生時間が午後1時30分とおおむね昼食後であったことや、震源及び激震域が山間部で住宅が密集していなかったこと、地盤が比較的良かったためと考えられる。

・ 被害の種類としては、①家屋の倒壊、山間部での斜面崩壊、落石等の地震動による被害②沿岸部での液状化現象による地盤被害③都市部での港湾岸壁の崩壊、マンホールの抜きあがり、電信柱の沈下等のライフラインの被害があげられる。

【復興プロセス】

郊外・過疎地域及び高齢化地域の被災者の世帯流出を防ぐため、住宅再建が優先される。道路や上水道等のライフラインの復旧に関しては、被害状況把握時点で即対応に着手している。逆に農業施設等の被害については、緊急に行うべき対応が落ち着いた後に実施される傾向がある。

【住宅再建の方式】

住宅復興補助金制度

被災住宅の建替えには一律300万円、補修には150万円を上限に交付する全国初の公的支援制度。液状化建物の復旧や石垣、擁壁の補修等も含まれる。建替えの補助に対しては県が補助金の2/3を交付し、補修の補助に対しては補助対象経費が50万円以下の場合県が1/2を交付し、補助対象経費が50万円から150万円の場合県が1/3を交付する。残りの負担に関しては、各市町村の実情に応じて市町村が定める。また、現地再建を誘導し、復興スピードを促進させるために、補助金の要求期限がそれぞれ地震発生日より3年、2年と決められている。

利子補給・融資

住宅金融公庫等の災害復興住宅融資を受けた者に対して利子補給を行い、また「鳥取県災害復興住宅建設資金」の上乗せ融資を行う。

公営住宅の建設

全体で26件が建設される。

公営住宅及び民営住宅への家賃補助

応急仮設住宅として、実際に仮設住宅を設置するケースだけでなく、公営住宅及び民営住宅の家賃補助が行われる。(70件)被害のない公営・民営住宅の空きが十分ある場合は仮設住宅の設置は行われていない。

被災者住宅再建支援制度(2001年6月~)

鳥取県西部地震後に、「住宅復興補助金制度」を今後の災害対策住宅施策として一般化し、条例化したもの。地震、洪水、豪雪等の自然災害で、原則として鳥取県下で10戸以上全壊の場合、被災前と同じ市町村内に住宅を再建・購入する者に300万円まで、補修には150万円までの補助金を支給する制度である。り災証明の判定ではなく、実際に再建や補修を行ったかどうかで支給を決め、年齢や所得制限は設けられていない。財源確保のため、県と県内の全市町村が出資する「鳥取県住宅再建支援基金」を創設し、県と市町村で年1億ずつ拠出し25年間で50億を積み立て、補助金は「基金8、県1、市町村1」の割合で支出する。

【復興プロセスにおける住宅再建の教訓】

・ 被災者は住宅復興補助金を高く評価していて、これにより地震を契機に大幅な人口減少に見舞われず、過疎地域の急速なコミュニティの崩壊を食い止めることができたと考えられる。

・ 鳥取県が負担した復興支援事業費全体に占める補修事業費の割合で見ると、総事業費の約半分を補修・復旧関連の補助金で占めていて、補修への対応が手厚いことが分かる。集落の維持という視点から補修の促進は重要であり、復興に寄与していると言える。

・ 補助金制度の設定した期限のために、再建ニーズと工事業者側のマンパワーがミスマッチを起こしている。補助金交付の請求期限までに再建工事を完了させておかなければ支給されないという制約がもたらす影響について、考察の必要がある。

・ 交付手続きの方法や手順が複雑で、被災者にとって負担が大きい。

出典

大西一嘉:「鳥取県西部地震における住宅復興支援策の評価に関する研究」、地域安全学会論文集N0.4、2002

小山真紀:「2000年鳥取県西部地震における市町村行政対応事例調査-震度と対応実施状況-」、地域安全学会論文集N0.5、2003

鳥取県HP、生活環境部、鳥取県の被災者住宅再建支援制度、

http://www.pref.tottori.jp/jyuutaku/shiennjourei1.htm

鳥取県防災危機管理課:「米子震災フォーラム~鳥取県西部地震の教訓を活かして~報告書」、2001.3

芸予地震 (M6.7) 2001年3月24日 15時28分

□人的被害 死者2人 負傷者約288人

□建物 全壊58棟、半壊405棟、一部損壊40,226棟

□概要

2001年3月24日15時28分、瀬戸内海西部の安芸灘を震源としてM6.7の地震が

発生し、最大震度6弱を記録するなど西日本の広い範囲で揺れを感じた。

広島市周辺の海岸部では液状化、呉市・今治市では建物被害が顕著であるが、

全体として揺れそのものに対する直接的な被害は少なかった震災である。

【復興プロセス】

災害救助法(広島県13市町)の適用

収容施設(応急仮設住宅を含む)の供与、災害にかかった住宅の応急修理,災害によって住居又はその周辺に運ばれた土石,竹木等で,日常生活に著しい障害を及ぼしているものの除去(障害物の除去)

市や町の飲料水供給や避難所設置の費用を国と県が折半し負担する

被災者生活再建支援法

全壊またはそれと同等の住宅に対し世帯主の収入や年齢等により,最高100万円の支援金を支給

【住宅再建の方式】

県営住宅の提供

全壊または半壊した被災者に、県営住宅を無料で提供(呉市二十四戸、広島市十八戸など、合わせて九十一戸。入居期間は最長六カ月間で新しい住宅を確保するまで)

新たな支援方式

・災害援護資金貸付金及び生活福祉資金貸付金にかかわる利子補給制度

・住家の半壊した世帯に対しての災害見舞金制度

・被災者生活再建支援法による支援金に準じた県独自の支援金制度

・お年寄りや障害者のうち低所得所帯の住宅補修費に対する補助制度

・住宅金融公庫及び民間金融機関の災害復興資金に係る利子補給制度

・被災者の県営住宅への入居に対しての家賃の免除措置

・中小企業への運転資金、設備資金の低利融資制度の創設

【住宅プロセスにおける住宅再建の教訓】

・被災を受けていない市民の反応が今一つで、これが今後の課題

災害救援では直後は人が集まるが、そのエネルギーを日常のボランティア活動に

つなげることが大切

・芸予地震直後に集まった職員が、地域防災計画に定めた動員数を大幅に下回った

初動体制をもういちど検討する必要がある

出典

内閣府HP

熊谷良雄他:「2001年芸予地震における住民行動の分析」

地域安全学会 地震・火山災害における住民・行政の対応と被災地の復興